こうあるべきを捨てて自分の心地よさを優先する。家呑みにぴったりの石ころカップ。
ろばのウチでは毎日お酒を飲みます。二人とも日本酒が苦手なのでワインか酸っぱいベルギービールを飲むのですがいつも陶器のカップで飲んでいます。ろばの家はわたしたち夫婦二人で運営しているので完全共働き、365日24時間ほぼ一緒。家事も平等に分担していて食事の支度は帰宅後二人でよーいドンの一斉スタートです。お米を研ぐよりまず先にやることは、渡辺隆之さんの石ころカップにワインを注ぐこと(笑)。台所で調理しながらちびちび、これがいいんです。
「え?これでワイン?小さくないです?」とよく聞かれるのですがこまめに注ぐので飲みすぎ防止になるし温度もダレないし、手に収まる感じもちょうどよいしでジャストサイズなんです。
ただし、パパろばの愛用品は相当前のものなので今よりずっと薄手の作りです。玉子の殻のように真っ白なカップでしたがずいぶん使い込んでいい味が出てきました。パパろばはこれ以外のカップでワインを飲むことほとんどないですからね。365日使わない日などない、というくらい。渡辺さんはここ最近あえて少し厚めに作っていて「せっかく一生懸命作っても壊れちゃうのは悲しいし、長く使ってほしいので」と話していました。お客様から薄すぎて割ってしまったと何度か言われたのだそうです。
それで一度は厚手に作っていたのですが、ワインを飲むときの口当たりは薄い方がよいので、お願いしてまた若干薄めの作りに戻していただきました。それでも、2~3個重ねて心配のない厚さです。
このカップでワインを飲むようになってからすっかりワイングラスを使わなくなってしまいました。まがいなりにも二人ともプロフェッショナルとしてワインショップで長年働いていたわけですし、専門的なワイングラスもあれこれ持っているのですが本当にまったく使っていないのです。もう何年棚から出していないでしょう…。
一応わたくしママろばもイタリアのプロフェッショナルソムリエの資格を持っていて星付きのリストランテやホテルでソムリエールとして働いていたので薄いクリスタルグラスの扱いは心得ている方ですが、自宅で飲む時まであの華奢で割れやすいグラスを使う必要があるかな?と思ってしまいます。脚の細いワイングラスは洗う時も拭き上げる時も注意が必要で、ましてやお酒が入って酔っぱらってくると危険極まりない(笑)。きちんとしたワイングラスはそれなりに値段も張るので誤って割ってしまうとかなりの痛手です。毎日飲むからこそ気兼ねなくリラックスして使える容器が安心です。
わたしたちがこの石ころカップにたどり着いたのにはまず何よりもそのカップ自体があまりに好きだったからです。実際に使ってみるとワイングラスのように気を遣う必要もなく、手に持っている感じも軽くて疲れず、口に当たる感触はすべすべと気持ちいい。五感すべてにゆる~く働きかけてじわ~っと身体に染み入るように疲れを癒してくれました。そもそも、お箸で食事を食べる日本の食卓に脚の長いワイングラスはバランス的にも不均衡だし倒れやすくて危ないですよね。ワイングラスと違って飲み終わった後多少放置しても洗う時さほど苦労しなくて済みます。グラスだとワインを入れっぱなしにすると輪ジミになって大変ですからね。あらゆる観点から「これでいいんじゃないの?」という感じだったのです。一度味をしめてしまうともう戻れません。楽すぎるのです。
うるさいことを言えばこの石ころカップのように焼き締めの陶器はガラスと違って微量ながらも酸素の出入りがあるのでワインが還元状態にある場合もエアレーション効果があり緩和できる、などというややマニアックな観点からワインに向いていると考える人もいるようです。長い間ガラスのボトルの中で酸欠状態に置かれて窮屈な思いをしていたワインが好気的な容器に注がれて伸び伸びできる、というわけです。ただ、わたしたちはあくまで単純に「自分自身が心地よい」状態で飲めばいいんじゃないかな、と考えているだけです。
ワインショップで働いていた頃はよく「ワイン初心者ですがどんなグラスを揃えたらよいか?」という質問を受けたものです。ワインは専用のワイングラスで飲まなければならない、それが当たり前のように浸透しているからですよね。もちろんサービスに従事するなどプロとしてワインに接する人はきちんとテイスティングする必要があるのでそれなりのワイングラスを持っていた方がよいとは思います。でも、いったん業界から離れてみて感じることは「美味しいワインはコップで飲んでも湯呑で飲んでも美味しい」ということです。逆に言うとテイスティンググラスで集中して細部まで比較する必要がないのであれば、なんでも好きな容器で十分にワインの個性を楽しめるんじゃないかな、ということです。誤解のないように説明しておきますが、陶器のカップで飲んでいてもわたしたちは生産者の個性やヴィンテージ、品種の違い、変化の過程など十分に感じて楽しんでいますよ。わたしたちが特別な味覚を持っているということではなく、容器によって生じる微小な風味の差まで一般の愛好家が追求する必要などないのでは?という意味です。ワインのたしなみ方を教本片手に勉強する、そんなバブル期的風潮がすっかり古臭くなってしまったということなのかもしれません。
長きにわたりワイン愛好家が必死に覚えなければならないとされていたヴィンテージチャートや、格付けや村名、評論家のポイントといった呪縛から解放されて、自然をリスペクトして作られた味わいも優しいナチュールワインを気軽に楽しみたいという人が増えてきているようですね。だったら、飲み方ももっと個人の自由にゆだねられてよいはずです。自分が美味しいと思えればそれでよいのではないでしょうか。
ワインに限らずお茶を飲む時でも手にも唇にも心地よいですからね、この石ころカップ。あ、石ころカップとはわたしが勝手に呼んでいるだけで、渡辺さんご自身はこの砂鋳込みという手法で作られた一連のシリーズを「くぼみ」と呼んでいます。最近になってそう呼ぶことにしたのだと話していました。
ご存じない方のために説明すると、見た目が石ころのようだから石ころカップ、とイメージで呼んでいたということもありますが、本当に河原の石を原型に作られているのです。
そもそもこのカップを作る際の「砂鋳込み」という技法を思いついたのも、渡辺さんが幼い娘さんと手をつないで砂浜を散歩していた時。砂浜の石をどけるとポカリと砂に石の形がクレーターのようにへこんで跡になっていたのを見てひらめいたのだそう。砂浜に粘土を持って行き砂に好きな形の石ころをおしつけ、へこんでできた窪みに泥漿とよばれる粘土を薄めに溶いたものを流し込み、粘土が乾くのを待つ。すると乾いて縮んだ粘土がパカリと型からはがれるのです。
今では砂浜ではなく、シリカなどの砂状の素材を用いて工房に作った砂場のような場所で砂鋳込みのカップを作っています。「作業効率の面でもそうしていますが、砂浜でそんなことやっていると怪しい人に見られてしまって」と笑っていました。
その作り方だと、ろくろで成型するのと違い原型の石の形を再現できるのですから、その造形は限りなく自然がつくったものに近づきます。人間がいくら完璧を意図して作っても、自然の美しさにはかなわない…。
当時自分の作品の完成形が決めきれず悩んでいた渡辺さん。人為的な造形には出せない自然で美しいフォルム、けれどもその工程では渡辺さんという存在の関与も確かにある。何かがしっくりと、すとんと胸に落とし込めたのだそうです。このやり方なら、とあるところまでは自分の作品だけれど、あとは自然任せとあきらめがつく。砂に石ころをどこまでおしつけるのか、どのくらいの量の泥漿を流し込むのか、そういった細かな意思決定で出来上がる形は千差万別です。あくまで自然の造形物のコピーであるのに、渡辺さんのクリエイションでもあるわけです。
わたしがこの話を初めて渡辺さんから聞いたとき、すぐに「わたしたちが好きなワインの生産者と言っていることは同じだ」そう感じました。あくまでも自然をリスペクトして、自分はブドウがワインとなる過程の手助けをするだけ。それでも、同じような条件で同じ品種のブドウで同じ年に二人の作り手が作ったワインは、まったく別の個性を持つのです。出来上がったワインの中には、それがどんなに自然に作られたものであってもそれを醸した人間による無数の選択の積み重ねが映しこまれているのです。だから余計に、渡辺さんのカップでそのようにして作られたワインを飲むことが自然なことに思えたのかもしれません。
けれども面白いことには、こういった背景をまったく知らない方でも初めてこのカップが並んでいるところを見ると「なんだか、石ころみたい」…そう、口にするのです。そしてわたしたちがそのカップに試飲のお茶を入れてお出しすると、手にした途端に「わ、なんかこれ、いい感じ」と驚かれる方が多いのです。
そして一口飲んでみると「なんだかホッとしますね」と、想像以上の心地のよさが不思議なのか手のひらを目の高さまで持ちあげて改めてカップを眺めてみるのです。
「ほんと、石みたい」
少しずつ時間をかけてゆっくりと変化してゆく様子も楽しみたい、ワインのような飲み物には最高ですよ。渡辺さんと同じように、人間のすることよりも自然をリスペクトしてつくられたワインならなおのこと、ですね。
◇渡辺隆之さんの作品はコチラです。