作為と無作為の境界に横たわるグレーゾーン。白石陽一さんの磁器。

白も黒も概念。完璧な白や100%の黒などこの現実世界には存在しない。濃い薄いという印象もあくまで相対でしかないのだから、グレーなどさらに多様な概念です。だからこそグレーゾーンという言葉があるのでしょう。白黒つけられない領域。この、無限の可能性を持つグラデーョンを前に「これはグレーなのかそれともベージュなのか?」と腕を組むのはナンセンス。明度や色相を数値で表してみたり、ひとつひとつのグレーに名前を与えてみたり…。それを定義してみたところで見る人変われば印象も変わります。ワタシが薄グレーととらえる色をオフホワイトと呼ぶ人がいるかもしれないし、濃いグレーが黒にしか見えない人もいるでしょう。正解なんて必要ありません。

「白い磁土に黒を混ぜてグレーを作るんですけど、ざっくり濃い目、薄目と意識するくらいでグラムを計ったり記録をとったりはしないんです。」電話口で聞いた白石陽一さんの口調は静かでとても穏やか。作品から受ける印象からはかけ離れたおっとりした話し方でした。ヒトより先に作品に出会ってしまった場合いつもそうなのですが、必要以上に想像を膨らませてしまうので、後から十中八九、想像と違う人物像に驚くことになるのです。白石さんの場合ははじめに作品、次に声、そして先日ついにご本人、という順序で解禁していったので(笑)、膨らみすぎた想像をある程度修正しながら自分の中の白石さん像を固めてきました。この、ソフトフォーカスな輪郭とシャープなフォルムとが同居する独特の世界の創造主。どんな人とまではわからないけれど、きっとすごく色んなことを突き詰めて考える人なんだろうなあと思っていました。無口なのかな?と思いきや、疑問に思うことを質問すると簡潔な言葉で淀みなく答えてくれます。微妙なニュアンスが宿命的に生んでしまう誤解にまで備えてあるかのような、厳重に抑制を効かせた表現。まるでその種の質問についてはすでに考え尽くしてきたとでもいうように滑らかに出てくる的確な言葉の数々が、彼の表現の核にあるモノを浮き彫りにします。言葉の選び方もさることながらワタシが驚いてしまったのは、彼の言葉によってそぎ落とされて残った芯の要素、核となる精神性のような何かが作品からもダイレクトに感じられる、そのことでした。そしてそれがすべての作品に共通して滲み出ていること、何よりその整合性に魅せられてしまったのです。均一なものを作るつもりがもともとないのだから、色だって揃える必要はないし部分的に色がまだらになったっていい。言葉だけ聞くと、ただテキトーに作ればいいと思われてしまうかもしれませんが、出来上がったモノを見ればその不均一さが美しく見える時にだけ、テキトーさえをもよしとしていることがうかがえます。バッチリフルメイクで決めるより、まるで素肌でいるかのようなナチュラルメイクに仕上げることの方が数倍難しい、というのと似ています。こんな風に例えてしまうと白石さんに嫌がられそうだけど…(笑)。

鋳込みと呼ばれる、型に泥漿を流し込んで作る磁器。ろくろなどで成形する陶器と比較して一般的には、同じ形のものを量産できるやり方と認識されています。白石さんのうつわはしかし、二つと同じ形のものがありません。”自然に生まれた形の面白さ”に魅かれるという言葉の通り、カップのエッジもプレートの縁も、ひとつひとつ絶妙にズレたゆらぎを作りだしています。一定の軌跡を持たない自由曲線。砂浜に寄せる波が幾重にも残してゆく泡のように規則性のない、けれど美しく、自然なライン。それは彼が型に泥漿を流し込む際にあえて手を加えず、自然な泥の流れにまかせているから。仕上げ作業でも余計なラインの処理はしないため、純粋に泥の動いた形跡だけがエッジに残ります。まるで動画をストップモーションで見るように、まさに泥が撥ねたその一瞬をフリーズさせたのでは?と息をのむような臨場感をともなう作品まであります。自由なラインと呼ぶとあまりにも人工的に聞こえてしまうかもしれません。自然な、と表現するべきでしょうか。それは意図しようとしてもできない種類のラインなのです。どんなに自然なラインを描こうとしても、自然にしようという意図がそのまま作為となってしまう。作為的でないようにする行為。それもまた作為、です。合わせ鏡を覗き込むように終わりのない、自我との戦い。どこまでが作為で、どこまでが自然なのか…。

「だってね、そもそも鋳込みという手法自体、むちゃくちゃ人工的な手法じゃないですか。泥の自然な動きを楽しみたかったら、違う手法の方がよかったのでは?」「そう、そうなんです。」ズバリ、聞いてみたかったことをたずねるとやはり想定内の質問だったらしく慌てる様子がない。「僕は陶芸を始めたのが人より遅くてスタート地点で出遅れちゃったんです。」「それまで何をしていたんですか?」「地元の福岡で、はじめは運送会社のドライバーをしていて、その後古着が好きだったから古着ならやっぱり東京だろう、と東京に出て行ったんです」「そりゃまた極端な。ご両親びっくりしたでしょうね。」「東京の古着屋で働いていて、いつかは自分でお店をと思っていたんですけど僕が好きなモノは本当に古いヴィンテージのものだけで、そういう品物は当時でもどんどん枯渇してきていた。結局他人からモノを買って売っている限り、常に商材に左右されてしまうでしょう?だったら何か、自分で作りだせる方が将来性があるって思って仕事を辞めたんです。」「え?いきなり?何かアテはあったんですか?」「ありません(笑)。ただもうクラフトと呼ばれるものは金工でも木工でも片っ端から見て歩いて、あれこれちょこっと試したりしているうちに陶芸もいいな、と。」「その間、バイトで食いつないでいた、とか?」「そんな感じです。それで、岐阜の多治見市陶磁器意匠研究所に入ったんです。」「確か村上さんも意匠研ですよね。」白石さんは、村上雄一さんにご紹介いただいたのでした。非常に仲良くしているからと、快く連絡をとってくださったのです。…と、またまた大きく本題からそれてしまいました。そう、なぜ自然な泥の動きを楽しむのに直接泥をこねる手法にたどり着かなかったのか、という質問でした。はじめは彼自身The陶芸!というイメージの土をこねてろくろを挽き…という海原雄山的な(注:ママろばの勝手な補足例です)作品を目指していたし、現に展示会などを見ていたのもクラッシックな作品ばかりだったそう。それが、東京で現代的な作品を見て衝撃を受けたこと、研究所の授業で磁器をやり、その時に鋳込みの手法が思っていたより色々な表現ができるところに面白みを見出せたこと…という両方の理由が彼を磁器へと導いたようです。「正直、スタートが出遅れたのもあってそのThe陶芸的世界には飛び込む余地がないなあ、とひるんだというのもあります」そして「鋳込みには無限に表現の可能性があるのに、面白いことをやっている人がまだそう多くはないという点も魅力的だった」と素直に語ってくれました。

「でも僕のやってることって鋳込みには鋳込みなんですけど、ものすごく手間のかかる、生産性の低いやり方なんです。全然人にはおすすめできません」「このすべすべした肌、ひとつひとつ磨いてるんですよね?」「そうなんです。素焼きの状態で全部磨いてから焼くから全然進まない。粉塵もすごいし」「あとこのイレギュラーなカタチの多角形プレート、角が直角じゃないのにどうやって型を作っているんですか?スティック状の型をその都度自由に組み合わせるから同じ形のものは二度とできない、と聞いて不思議だったんです。どうして泥が漏れないのか、って」「まさに。実は無茶苦茶大変です(笑)。あれは、いったんそのスティック同士を泥漿でつなげてから流し込むんです。一回限りしか使えません」なるほど。謎が解けました。まあそれにしても、相当クレイジーなやり方をしているんですね。確かに、これでは全然数をこなせないはずです。



「でもさ、意地悪な質問しちゃうけど、じゃあ自分で作ってみてさ「コレはちょっと作為的すぎるな」とか言って、ナチュラルさが強調され過ぎてわざとらしく見えちゃうようなものをはじいたりとか、そうなったりしないの?」「いや、もちろんなりますよ。でも最近は自分がそう思うボーダーラインの外側にあるようなモノも、許しちゃうようにしてるんです。というか、許せるようになってきました。僕はいいと思わなくても、他人がいいと思ってくれるんならいいや、って。以前はもっと頑なだったんです。もっとギスギスにとんがってて、こんなの全然ダメだ!こっちも全部ボツ!!みたいに(笑)。ある程度は相手にゆだねることが出来るようになってきたんです。いいと思うモノだけを選んでもらえばいいんだし。」…なるほど。肩の力が抜けてきたということなんでしょうね。


「こんな風に話すとものすごく達観しているみたいに思われそうですけれど、実際にはもう全然、逆です。その場その場で必死にアップアップ、もがき続けてきました」と笑います。笑うととてもシャイな感じで、でも同時に結構アクが強くひょうひょうとした雰囲気もあり、ますます白石さんへの個人的興味が募ってきたママろば。どんどん話を引き出すべく、さらに質問攻めに。結局一時間以上話したでしょうか。電話でも30分くらいお話をうかがいましたが、やはり実際に会って話をするのとでは同じ言葉を聞いていても伝わる内容が変わります。刺激的な時間でした。自分より(とても)若く感性豊かで、一生懸命何かと向き合っている人と接することほど若さを保てることはないというのがママろばの持論なんです(笑)。でもなんというか、ナマの白石さんとお話ししてみると実際には”若い人と”だなんて上からな言い方は全くそぐわない気がしました。彼が落ち着いているからとかではなく”世界観が確立されている”ということなのだと思います。歳って、本当に関係ない。ものの見方~この世界で自分がどこに立ってどちらを向いているのか~を意識できているか。それがきっと、迷いを払ってくれる。そして迷いのない姿勢で作られたものには、一本すっと筋が通る。説得力を持つ。それを核、と呼んでいるのかもしれません。

けれど白石さんは、今獲得しているように見える彼のモノの見方を、簡単に肯定してきたわけではないようでした。「ようやく最近、本当に何とかやっとその片鱗に触れはじめたところなんです」と。そしておそらく彼は今、一番波に乗っているのではないでしょうか。今年は色々なことにチャレンジする年になるだろうという話も、淡々と語る中に隠せない意欲が感じ取れました。自分がやってきたことに対して、ある程度自信がついてきたひと特有の勢いを持っています。その印象をとても爽やかに、嫌味なく身にまとわせていました。その自信は作品にも現れているように思えます。「どれもこれも違っちゃってますけど、何か?」的なふてぶてしさはなく、ただ「今の自分にはそうする以外に仕方がないのだ」という抑制された自己主張を持つ作品たち。もしも気に入ってもらえるなら嬉しいけど、と。

“白黒つけない”白石陽一さんの世界においては、すべての物質を有機質と無機質とに二分する必要もない。鉱物でしかないはずの泥は、明らかに生きている。グレーゾーンは、いつか明らかにされるべき領域とは限らない。その無限のグラデーションは名前を持たず、ただそこに存在する。静かに、陽の光を浴びて。あとはあるがままに、好きなように受け止めればいいだけなんじゃないか…。さんざんべらべら喋っておいて今更なんですが、白石さんの作品は実際に触ってみるのが一番その魅力を感じられると思います。遠目にはなんの変哲もない、シンプルなモノトーンの作品にしか見えませんが、ちょっと近づくとぐっと惹きつけれられる磁力を持っています。Sabadiのシモーネが自身のパッケージデザインに対して話していた言葉が浮かんできました。「その道のプロが見ないとわからないような微細な、0.1ミリ単位のディティールまで徹底的にこだわり抜く。自己満足にしか見えないような些細なことまでもね。だけどその差は確実に出る。素人が一目見てもわかる違いとなってね」どうか、お手に取ってそのすべすべの素肌(と、みせかけてナチュラルメイクかもしれませんよ~(笑)!)と、内に秘めた吸引力を感じてください。

ろばの家には初登場の白石陽一さんです。嬉しいことに、続く3月1日からスタートの『豆まめしく』の展示にも参加していただけることが決定しています。今年第一弾目の展示、面白いことになってきましたね!

白石陽一さんのページはコチラです。

 

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