ヴィヴィットに。色やカタチを超えて、生きているうつわを。

ワインと焼きものであるうつわは、生産者(作家)のワイン(作品)に対するアプローチという側面から見ると、とっても似通っています。ただし、生きているワイン、生きているうつわに限ってのお話ですが。

「これこそまさに生きているうつわじゃん!!」と叫ぶパパろば。梱包をとき、ひとつ作品を取りだすごとに心が躍り、ひとつまたひとつと並べていくにつれ笑いが止まらなくなる。そんな楽しい作品に出会えることは、今のワタシたちにとってたまらなく嬉しく刺激になることです。初めてその作品に触れた時にはまるで、ドクドクと脈打つ心臓を手の平にのせられたかのような衝撃でした。その動きは非現実的に思えるほどリアルで、思わず手を引っ込めてしまいそうになったほどです。それほどショッキングな、生身の出会いでした。

宮崎県西臼井郡高千穂でうつわを作る、壷田亜矢さん、和宏さんご夫妻の作品たち。会期中ろばの家を訪れてくださった方の中には、『おやつの時間』の青いDMの中でドーナッツの下に描かれたマグカップが、ご夫妻の作品をモデルにしたものだと気付いた方もいらしたでしょうか。あの、おさるさんの耳のようにも、ドーナッツの穴のようにも見えるぽっかり開いたまん丸の空間。びよ~んと伸びた取っ手。実際に使ってみるまでは、こんなカタチのもので液体を飲むだなんて想像の範囲外でした。なんて開放的。なんて自由。

恐らくこの二人との出会いはろばの家にとって、その存在意義を根本から問いたださざるを得ないような大きな出来事であり、そして実際にはワタシたちの人生そのものまで変えてしまうほどの影響力と、たとえようのない喜びをもたらしてくれました。それはまさに初めて自然派ワインとよばれる、人間が余計な技術や添加物を用いずに土地の個性を表現しようとしてつくられたワインに出会った頃の感覚に匹敵する、新鮮な驚きとワクワク感と同じ種類のものだったのです。「こんな世界が存在したんだ!」というシンプルな驚き。これまで自分がいかに既成概念にとらわれて小さな世界しか見えていなかったかを思い知らされる心地よい敗北感と、目の前に新しい世界が広がってゆくことへの素直な喜び。

前回の『やっぱり、ごはん党』の時、和宏さんの馬鹿でかい大むすび皿やら、それらの巨大な大皿と同じだけのパワーを持つ小ぶりの飯椀が何種類も届いて、そのあまりにぶっ飛んだ和宏さんぶりに度肝を抜かれました。亜矢さんの象嵌茶碗が、あまりにキュートでユーモラスで、心をつかまれました。もうこれ以上驚かされることはないだろうと、しかも『おやつの時間』ではマグカップとかケーキ皿とかが届くのだからどんなにはじけても想定内だろうと、パパろばとタカをくくっていました。でもここで今こうしてお二人の作品を並べて思うことは、

「どうやったら、こんなにチャーミングなものがつくれるのだろう?」

という純粋な疑問と憧れだけなのです。どの作品を手にとっても、それぞれに生き生きとして、見れば見るほど気が付かなかった魅力を発見してしまい、さっきまでは「あっちが一番」とお気に入りを決めていたのに次の瞬間には「やっぱこっちもいい」となってしまう。今ワタシたちがひしひしと感じてしまうのは「もっともっと、彼らの作品を見てみたい。もっと、彼らのことを知りたい。」という衝動なのです。きっとそれは彼らの生き方に触れる事が自分たちの価値観を変え、影響を及ぼし、わたしたちの人生をもっと豊かで、もっと楽しいモノにしてくれるはずだと無意識に期待してしまうからなのでしょう。それがきっと、今のワクワク感の出どころなのです。

それは何から何まで、ワインの生産者と触れ合って感じてきたことと同じでした。わたくしママろばは、10年ほど前に帰国するまで8年間イタリアで暮らしていました。ソムリエとして働いたあとシチリアでワイン造りのお手伝いをしながら、クルティエといってワイナリーを輸入業者に紹介するエージェントのような仕事もして、帰国後も続けていました。パパろばも前職はワイン屋です。「どうしてろばの家でワインも置かないの?」と、多少事情を知っているお客さまには聞かれます。3年前シチリアのワイン生産者アリアンナ・オッキピンティが来日してお店に遊びに来た際にも「ここはライフスタイルショップなんでしょう?ワインも置いてある方が自然じゃないの?アナタたちがやるんなら」と言われました。多分、そのあたりのいきさつは一度詳しくご説明しておいた方が話がスムーズなのかもしれませんね。なぜゆえにワイン屋でもないろばの家で、やたらにヴィナイオータさんの商品やらイタリアのワイン生産者の話が登場するのか…ただ、話せばなが~~~いことなので、ただでさえ話が長いママろばの身の上話はいつかまた別の機会にとっておくことにしましょう。なのにどうしてまた今ここでワインの話を持ち出してきたのかというと、それはひとえに、ワインと焼きものはあまりにも共通点が多いから、に他なりません。そう、はっきり言ってまったく一緒です。

自分の既成概念をぶち壊し、枠を外してもらえる快感。いかに自分が銘柄とか品種とか、ヴィンテージの良し悪しとかに代表される、情報的なものでワインを判断しようとしていたか、そしてその行為のつまらなさ。同様に、無農薬なのか亜硫酸無添加なのか、ナチュラルなのかそうでないのかそれさえも結局二次的情報に過ぎないのだと気づくこと。大切なのは「美味しいか美味しくないか、心地よいか否か」であって、要はシンプルに心を開いて感じさえすればいいんだ。アタマで飲むのでなく、身体で、ココロで飲めばいい。そしてそうやって心をオープンな状態で受け入れることができれば”美味しい”の先にある”心を動かす”という世界にまで踏み込むことができるのだと気付かせてくれる、心躍るワインたち。そんなワインを作る生産者たちは、彼ら自身が、その生き方そのものがとびきり魅力的でどこまでもチャーミングです。そしてそんな彼らと出会い、対話し、時に真剣に討論しぶつかり合うことで、仕事というものへの認識を変え、自分の人生をどう生きたいかを問い、前に進む勇気をもらってきました。つまり今ここにあるワタクシママろばの人生観は、彼らとの出会いによって形成されてきたと言っても過言ではないのです。

そして、そんな風に自分の生き方までをも変えてくれるようなワイン生産者に出会うことは、純粋に何にも代えがたい貴重な喜びであり財産でした。それと同等のよろこびを今、壷田亜矢さん、和宏さんたちの作品を前に、また彼らから差し出される言葉を前に、強く強く感じています。こんなにワクワクする出会いは、人生においてそうそう簡単に得られるものではないのでは、とまで思ってしまう。

個性的という言葉で片付けてしまうのは本質を見失ってる見方に感じます。もちろん、とある一面は言いえています。彼らの作品は文句なしに個性的で、独創的に見えます。ではワタシたちが彼らの作品に心酔している理由がそれなのかというと、どうも違う気がするのです。個性的でも、独創的に見えても、心にまでは響かないものが沢山あります。欠点ひとつなく優雅で、キレイだな~とは思えても、感動することはできないワインが沢山あるように。

個性とは、単に個々の性質の差でしかありません。ワタシとパパろばが違うように、あなたとあなたの隣の人が同じ人ではないように、そこに存在するものの数だけ個性は存在するのです。そして個性は、追い求めるものでも表現するものでもなく、自然に滲み出てしまうものなのだと思うのです。けれども、ワインやうつわに限らず、およそこの世で制作にかかわる全てのひとが求めるところの唯一無二の個性というモノが作品に自然に現れるためには、力が必要なのです。とてつもなく大きな力が。そしてその力というのは、残念ながらそう簡単に誰もが持ちうる種類のものではないのです。それを才能と呼ぶ人も、努力と呼ぶ人もいるのでしょう。焼きものの世界のことはよくわかりません。でも、ワインの世界に例えるのであればその力は、失敗を重ね経験と積み、なおかつ考え続けることをやめない柔軟さ。そして常に自分の力の及ばぬ領域があるのだという謙虚さと自然への畏怖がなければ、身に着かないものであるはずです。亜矢さんの作品から、和宏さんの作品から、まるでお二人の人柄そのもののような愉快さを感じてしまうのは、彼らが愉快な人たちだからではなく、愉快な人柄が自然に滲み出るだけの力を彼らが獲得してきたからに違いありません。彼らの作品は愉快だけれども、愉快な人なら誰でも彼らのような作品を生みだせるわけではないのです。

ワタシたちが好きなワインの生産者に「どういうワインを作りたいか?」と聞くと、だいたいみな口をそろえておなじようなことを言います。「土地の個性を最大限ワインに表現できるよう、人間の手をできるだけ加えずに自分は最低限、管理人のようにブドウがワインに育ってゆく過程を見守りその手助けをするだけ」と。でもそうして自分の個性ではなく、土地の個性を生かそうとして余計なことをせず、自然をリスペクトし、常に最善と思われる選択を取りつづけてつくられたワインはその意図に反して、もっとも個性的な、その人らしさが表現されたものなってしまう。そんな話を、6月に壷田家を訪ねた帰り道、熊本空港へと向かうバスの中でご長男の太郎君に話したことを覚えています。あまりにも、ワインの世界と焼きものの世界には共通点が多いのだと。ご両親のようにクリエイティブな活動を目指しているという彼には、そこで何を言いたいのかすぐに伝わったようでした。まだ道が見えていないクリエイター志望の若い人の多くに、個性はスタイルの違いだと解釈されている気がします。ある特定の色調、ある特定の質感、ライン。でもそれはとても表層的なものです。技法は表現方法でしかありません。またまたワインに例えるなら、今自然派ワインの世界では、アンフォラとよばれるテラコッタの壺が木樽に代わる醸造容器としてもてはやされています。「土から生まれたブドウを土から生まれた容器で醸造する以上に自然なことはない」という解釈で、より純粋にテロワールを表現できると考えてのことなのかもしれませんが、中に入れるブドウそのものに力がなければ壺で発酵しようがプラスチック容器で発酵しようがあまり効果がないと思えてしまいます。土着品種しかり、皮ごと発酵するマセレーションの日数の長さしかり。スタイルだけ変えても、生きたワインを作ることはできません。それはその人の生き方そのもの、人生の選択にかかわるもっと根源的な人間としての在り方の問題であるべきなのです。

「色や形を越えて生きている器が作りたい!」お二人の個展のDMに書かれていた言葉が、とても印象に残りました。色やカタチをこえ、言葉にすることもできない何かを追い求めてゆくことは、すなわちそんな風に生きてゆくことでしかありえません。「日々何を食し何を考え、どう生きているか。どうしてもそれが形に現れてしまう」そう言い切ったのは加地学さんでした。創造することは、生きること。生き方が魅力的でないと魅力的な作品は生まれてこない。楽しんで作られた作品じゃないと、使っている人は楽しい気分にならない。彼らの作品を見ているとそれがひしひしと、実感として伝わってきます。

だって、こんなにも生き生きしている。今にも踊りだしそうに、飛び跳ねそうに、底抜けに愉快に。とてもヴィヴィットな感覚で。ヴィヴィットvivitの語源はヴィーヴォvivo=生きている、です。

「近所のおじいちゃんおばあちゃんに配って回るとね、評判いいんですよ。ほら、ちょっと震えた手でもちゃんとつかめるって」とすっとぼける和宏さんのマグカップは、確かに持ち易い。腰に手をあてて牛乳を飲み干すみたいな感じで思わず背筋が伸びる。亜矢さんのうつわのまるっこい姿は動物のように手の中にうずくまる。手をつなぐ子どものような壺がいる。森のきのこのように愛らしい台皿がある。大きく自由に伸びた取っ手の穴から世界をのぞけば、その円く切り取られた世界は一瞬前よりずっと、ヴィヴィットだ。

びょ~~ん、ってね。

 

壷田亜矢さんのページはコチラです。
壷田和宏さんのページはコチラです。

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