選ぶ行為そのものが、こんなにも楽しいだなんて。遠い記憶を呼び覚ましてくれる、渡辺隆之さんのうつわ。

こんなにも夢中になって何かを選んだのは、何年…いや何十年ぶりだろう。

子どもの頃砂浜で拾い集めた貝殻。河原で見つけた様々な模様の小石…。時間を忘れてずうっと下を向いたまま、夢中になって拾い集めた自分だけの宝物。ただキレイだというだけの理由で、ただ面白いというだけのことで、使い道など考える必要などなかった。

ちょっと、思い出してきました。淡い桜色をした、透けるように薄い貝殻。ポケットの中でこすれ合うシャラシャラという音。平べったい小石の黄色い縞々模様。鮮やかな紫色に光るカラス貝の裏側。ザラザラしたガラス石は水色、緑色、茶色、白…。純粋に「キレイだから」というのが集める理由だった。というより、理由なんて考えてもみなかったはず。ただ、それが欲しかった。そしてそれを眺めているだけで、幸せだった。そんな気持ち、すっかり丸ごと忘れていました。

そんな風に、ただただ欲しいと思えるものが、今の自分にもあるのかしら?と考えてみる。大人になって、歳だけとって、実用性だなんてつまらない言葉も覚えてしまった、今の自分に。

渡辺隆之さんの砂鋳込みのうつわは、久しぶりに、本当に久しぶりにあの頃の気持ちを思い出させてくれました。ひとつひとつ、異なる色、形。ひっくり返すと石のように見える裏面の模様も、それぞれに個性がある。子どもの頃ならすぐにコンテストをはじめたに違いない。

それにしても、カップも鉢もお皿もゆがんでいたり、ぺらりと縁がめくれ上がっていたり…おおよそ、きっちりとしたフォルムに決まっているものが、ない。ハッキリ言って、どれもこれも、ゆるいラインだ。腰が抜けたような、気合のなさ。「やる気あんの?」とハッパをかけたくなる。そして恐らくは「ないですう~」と即答されてしまう。ガクッ…。

それなのになぜ、こんなにも魅かれてしまうのだろう。使い道なんて後から考えればいいや、と思えてしまうほどに強く、側に置いておきたくなってしまうその訴求力は、どこから来るのだろう?こんなやる気のない、その辺に転がっていそうな物体たちに。なんだかうつわというより、生き物みたいな感じもしてきます。思わず拾い上げたくなるような…。

そもそも”うつわ”と呼んでいいかどうかさえ、怪しいものです。入れ物、容器…ギリギリのライン?明らかにこれまで出会ったことのないタイプの、不思議な緊張感のなさ。

裏返して本物の石の隣に置くと、どちらが石でどちらが陶器だかわからなくなる。自然物に近いテクスチャー。貝殻、河原の石、玉子の殻…。リアル、と呼ぶのは間違っている。だってそれは、狙って出した効果ではないようだから。むしろ、何も狙いたくなんてなかったようなのです。

「うつわとして機能するのに必要最低限の条件を満たしていればいいかなって…。液体を入れることができ、それが漏れることなく保たれる、それで十分。外側と内側を隔てる膜のような、窪みのような…その程度の存在。」

それが、渡辺さんが作るうつわの、理想とする姿だ。多分。だいたいそんなところなんじゃないか…という程度には理解できたと思います。あまり自信がありません。でも、一字一句正確に彼が話した通りに書き記したところで、やっぱり彼の考えることは、ちゃんとは伝わらないんじゃないかと思う。だから諦めました(笑)。

すごく些細なことでも、哲学的に突き詰めて考えてしまう人のようで、話がすぐ理屈っぽくなってしまうのです。でも嫌いじゃないんですよ、ぜんぜんね。むしろ渡辺さんと話すのが楽しくて仕方がない。ママろばとは気が合うのかもしれません。屁理屈家同士、ね。おやつの時間会期中の定休日に、つくばから日帰りで静岡の工房を訪ねた弾丸ツアー。その短い滞在時間中、どれだけ長い間対話に費やしたことでしょう。作品を選ぶ頃には暗くなってしまい、大慌てでした。昨年一度お会いしたことがあって、その時も初対面とは思えない程長くお話ししていただいたのですが、もうずっと以前から知っている人のような気がします。

「本当はね、ろくろだって嫌いなわけじゃないんです。ものを作るのはとにかく楽しいから。楽しくて、やりすぎてしまう。そして、どこで絵筆を置けばいいのか、わからなくなってしまう。」

粘土の形を決める、最後の一手。「よし」と手を止め腰を上げる、その一瞬。その「よし、決まった」という瞬間の自分に、違和感を感じるのだという。自ら打たなければならない終止符の根拠のなさに、耐えられないのでしょう。よっぽど自分に自信がないか、逆にものすごい自意識過剰なのか…。

「考えすぎなんじゃないの?」そう言ってしまえば、それまでのことなのかもしれません。でも、彼がどうしてそこまで「よし、決まった」という瞬間におぞましさを感じてしまうのかと考えると、「美しいってなんだろう」という答えのない命題に、真剣に、謙虚に向き合っているからなんじゃないかと思えてくるのです。その答えを見つけた気にならないこと。わかったふりをしないこと。きっと彼は”うつわの姿”ではなく、”うつわの在り方”を問い続けているのです。

静岡県伊豆の国市。工房のある田中山は、海岸まで出るのに車で30分もかからない距離。生まれ育った土地であるこの町に越してくる前は、今よりさらに海に近いところに住んでいた渡辺さん。娘さんと砂浜を散歩している時、砂浜に転がる石を除けてできる窪みの美しさに魅入ってしまったことから、それを作品の型にすることを思いつきます。砂に丸い石などを押し付け窪みをつくり、そこに泥漿を流してうつわを成形するのです。

現在では、試行錯誤の末はじめの頃砂で作っていた型を硅石(けいせき)の粉で作っています。わたしたちが工房にうかがった時にも、屋外にテーブルのように置いた板の上で、真っ白い硅石の粉を乾燥させていました。型は一度泥を流すと崩してしまうので、ひとつの型は一度きりしか使えません。その、再現性のなさもこのやり方がしっくりきた理由のひとつなのでしょう。

もちろん、押し当てる石が同じであれば似たような形のものはできるけれど、全く同じものを作ることは不可能です。同じ形、同じ色のうつわは存在しない。ひとつひとつが、唯一無二、オリジナルの形状。川や海の水で洗われて丸くなった石のように。砂浜に打ち上げられた貝殻のように。無数にあってどれも同じように見える木の葉が、厳密には同じ形状をしているのではないという、自然界の法則のように。

ワタシたちがはじめて作品を見た昨年の5月頃が、渡辺さんが試行錯誤の末やっとたどりついた砂鋳込みの手法を用いた、はじめての展示だったと先日工房で聞きました。やっと、肩の力を抜いてうつわを作れるようになり、ずいぶんと気が楽になったとも。

自分で作っているのだけれど、自分で創り出しているのではない、カタチ。けれども、ちゃんとそこに渡辺隆之の考えるうつわ像が、映し出されている。意図して、意図せず生まれるカタチを作っているという、パラドックスのような、あまのじゃくのような、うつわ像…。狙いは、あざとさとなって現れる。あざとさは透けて見えてしまう。でも、あざとさを拭い去るよう巧妙に作り込むこともまた、あざとさだ。「自分が創っているのではない」と力を抜けるということが、彼のうつわをあざとさから遠ざけてくれるのではないか。わたくしママろばは、そう分析しました。分析して解説なんてしてしまうと、魅力が半減してしまいそうで怖いけど。それに渡辺さんが聞いたら「そういうんじゃないんです」と100倍くらいの言葉が返ってきちゃいそう。「よおし、受けてたつぞ~!自慢じゃないけれど、言葉数の多さじゃ負けてないんだから。」…って勝ち負けの問題じゃないですよね(笑)。でも事実、ワタクシは渡辺さんのうつわから、あざとさというものを感じないのです。全く、どこからも。

 

そんな屁理屈なんてどうでもいいというように、渡辺さんのうつわたちは涼しい(というよりは呑気な?)顔をしています。その中からひとつ、何も考えず手に取ってみる。素直に、まず目があったものを。べすべしていて、冷たい感触が気持ちいい。どれもとても軽やかで、薄い。でもその薄さには不思議と危うさはない。案外丈夫で、貝殻のように硬い手応えがある。真剣に吟味してひとつだけ選び取ろうとすると迷宮入りしてしまいます。見れば見るほど違った表情が見えてくるから。もっと気楽に、ピンと来た相手に手を伸ばすのが一番いい。

何を乗せよう?何を入れよう?こんなにも気に入って選らんだものなら、何だって楽しく合わせられる気がする。

渡辺さんのお宅でご馳走になった奥様の美味しいお料理を思い出して再現してみました。楕円のお皿でカレーライス。石のような質感にスパイスのイエローがとてもよく合っていました。「よかったら」と出されたカップにはおかわり用にレンズ豆のカレー。蒸しただけの野菜が、大き目のプレートに並べられていて、その色合いもきれいだった。

お茶の時間には、小さなプレートに羊羹を出して下さいました。「本当に葉っぱに乗せて食べてるみたいだね~。」なんて子供たちと話しながら。あ、上の写真も下の写真もその時のイメージで写真を撮りなおしてみたものですが、まったくダメですね。ぜんぜん葉っぱに乗せて食べてるみたいじゃないもの。カッコつけすぎなんです、きっと。

本当は、もっとさりげないのがいいのです。だって、食べる事ってそんなに、大袈裟なものじゃない。もっと構えずに何でもない事のように、ただ、自分にとって心地よければいい。そんな程度でいいのに。あのお料理にはこのお皿を、とか、羊羹が映えるようにするには手前をこの程度反せた方が…とか、そんな面倒な感じは手に追えないのだと。ただ、そこにあるものをとってきた、みたいな感じでいいんじゃないかな?と。渡辺さんは全然そんなこと言っていなかったけれど、このうつわたちを見ているとそう言われているような気がしてしまう。…やっぱり、なんともヤル気がない調子で(笑)。

そう、もっともっと、自由でいいと思う。自由に、自分に正直に。きっとどんなものでも、この子たちで食べると、飲むと、楽しい気持ちになれる。それがきっと、ただ、好きとだけ思って選んだものの、特権なんだと思う。あの、幼かった頃、いつまでだって飽きずに眺めつづけていた、宝物みたいに。自分の中のコンテストでダントツ一等賞、それだけで十分だったように。

渡辺隆之さんのページはコチラです。



この記事をシェアする
Share on Facebook
Facebook
Tweet about this on Twitter
Twitter
Share on Google+
Google+

関連記事