「これなんだか、いい感じだよね。」そのくらいの心地よさ。

ふう~~~~、ホッとする。落ち着くなあ…。皆さん今日も、お疲れ様です.

ストレスフルで忙しい毎日、一日の仕事を終えて温かいお茶を淹れ、フッと力を抜く。何も考えずボーっとできる時間の貴重さ。子育て中の主婦やサラリーマンだけでなく、バイトに励む学生さんや習い事や塾で忙しい小学生、介護問題に悩まされる熟年層まで、老若男女を問わず誰もかれもが癒しを求めている、一億総ストレス時代。その表現があながち大袈裟とも思えないほどの戦闘のような毎日、それがわたしたちが生きる現代です。

忙しいから効率第一で、どんなものでも、より便利でスピーディーであることが最優先。多機能、手間いらず。情報社会にあって、あの人が「これは優れモノ!」と言えばスーパーへ走り、この人が「これが使える!」と言えばネットで検索。情報に慣れているだけに簡単に鵜呑みにはせず、レビューや売れ筋ランキングで「本当に便利か」を調べることも忘れない、そんな時代。その情報の中には、このろばの家のHPで発信している内容だって、当然含まれているのです。

ほら、ついこの間だって『ろばの家の定番展』で、ウチで実際に使っている愛用品をこれでもかとおススメしたばかりです。「何にでも使えるスグレ物」「コレさえあれば」とおススメポイントもたっぷり語って。それ自体、まったく嘘はないどころか正真正銘200%、心から惚れ込んだ思い入れのあるモノばかりです。

でも、渡辺さんと話していて、ハッとした瞬間があったのです。渡辺さんの作品は先日「選ぶ行為そのものが、こんなにも楽しいだなんて…」と、ご紹介したばかりですよね。砂鋳込みという特殊な技法で作られた、河原の石ころのような作品を裏返して並べた画像とともに。

 

「そんなに使い勝手って、気にします?」

 

ドキッとしました。

いや、大事でしょう。それを痛感しているからこそ、いつだってこんなに、画面から唾が飛んできそうな勢いで熱弁しているんですから。でも、でも本当にそうかしら?だったら、こんなにも渡辺さんのうつわに魅かれている自分をどう説明する(←失礼な…。すいません!)?などと、いろいろな思いが交錯しました。なぜか不安になります。確かに、改めてそう聞かれると自信がなくなってきました。

「使い勝手とは、そんなに、気にするべきことなのか」

それは渡辺さんを訪ねて静岡県伊豆の国市まで出かけ、はじめて作品を仕入させていただくことになった、その時に工房で飛び出したセリフでした。まだ取扱いは始まっていない時で、その1年ほど前にお会いした時に「一度ちゃんと工房を訪問してから作品を紹介させていただく」と約束していたので、それを果たすためにお邪魔したのです。その時の渡辺さんとの長い長い対話は、わたしたちに「うつわの在り方」について考え直すキッカケを与えてくれ、その時持ち帰った作品たちは、無心で何かを選ぶ楽しさを思い出させてくれたのでした。

そう、無心。

実はわたしたちは何かを考えたり、選んだりする際、理性に頼る場合と直観に頼る場合の二通りがあると思うのです。そしてその二つのやり方を案外と上手に、都合よく使い分けているものなのです。「これはこうだから、これだけの値段を払ってもペイする」とか「この用途にも使えるし、あの用途にも使えてかつこの問題も解決!」という風に理性的にものを判断している時もあれば、「理由なんかわからないけれどなんだかコレ!」と直観だけを頼りに判断を下している時もある。そしてさらに言えば、本当はただフィーリングだけで判断しているのに、後から言い訳のように理由をこじつけて、理性的な判断だったと信じ込もうとしている、そんなケースも多いように思います。

「なんだかわからないけど、いい感じ」

その感覚に、もっと自信を持ってもいいのではないでしょうか。言い訳なんて必要ないですよね?好きだという感覚に無理に理由をつける義務はないのですから。

「ろばさんのHP見ましたよ。すごく使い勝手とか研究して、お料理を盛った画像とか沢山紹介していますよね。」と渡辺さんに聞かれた時、暗に「それなのにどうして自分の作品に興味を持ったのですか?」という疑問を挟み込まれている気がして、なぜだかたじろいでしまいました。わたしもまた、つい言い訳を探したくなる性分なのです。

先にお話した、渡辺さんの作品をはじめてご紹介した時のHPの記事を読み直して、「すいません、なんだか渡辺さんの作品の使い勝手が悪いみたいに聞こえちゃう文章になってしまって」とご本人に言い訳したら(わたしはいつでも何かに対して言い訳しているような気がする)、

「使い勝手は、まあ、その程度なんでぜんぜんあの通りでいいと思います。」

と、なんのこともなくあっさり認められてしまいました(笑)。

使い勝手は、もちろん大切です。そんな事、渡辺さんご本人だってよくご存じなのです。でも、世の中それだけじゃない。そういう観点からではない存在意義を持つモノが、この世にあったあっていいじゃないか。その辺から取ってきた葉っぱみたいなお皿、そこらに転がっている石みたいに見える、鉢。

一つひとつ違う形。縁は不均等にゆがみ、スタッキングできるかどうかなど試そうとさえ思わない。薄くてエッジが鋭くて、洗うのだって注意が必要。それなのに、こうして温かいお茶を入れて手で包み込むように持っていると、なぜだかホッとする。妙に手になじむカーブを確かめるのに、意味もなく何度も撫でまわしてしまいます。薄いからアツアツのお茶を入れると手も熱い。便利か不便かで言うなら、圧倒的に不便、そう答えざるを得ないはず。

だから、理屈じゃないんです。「なんか、いい。」くらいの感覚が、十分に有効なのです。渡辺さんの工房兼ご自宅でお昼ご飯をご馳走になった時、でてきたご飯土鍋の愛嬌ある姿に、わたしもパパろばも目が釘付けでした。

「なんですかその土器みたいなの」

「あ、これですか?僕が以前作っていた土鍋なんですけど、ご飯炊くのにちょうどよくて」と、テーブルに運んできてくれたコロンとした焼き締めの壺のようなお鍋は、蓋もなく、取っ手もなく、使い込まれた焼き跡が唯一の飾りといった素っ気なさでした。「蓋が壊れちゃったから木蓋を被せて使っていたら、十分美味しく炊けるんでこれでいいんだなと思って」と、焼け焦げがついていい感じに使い込まれた自作の木蓋も見せてくださいました。

「本当だ。美味しい。」奥様手作りの美味しいカレーに思わずご飯が進み、おかわりした甘いお米を噛みしめながら「そっか、これでいいんだ」と妙に納得。十分美味しく炊ける、その感じのスタンスがとても心地よく感じられたのです。

最近はあまり作っていないという耐熱のうつわ。以前作ったものが沢山あるというので見せてもらったら、渡辺さんがご自宅で使っているようなコロンとした土器のような土鍋が沢山。蓋がないものもあったのですが、ないものは作っていただき、いくつか分けていただきました。

砂鋳込みのうつわとはまた違った、渡辺隆之さんの耐熱土鍋。ミニマリズム、と言うのとはちょっと違う過不足のなさ。早速ひとつ自宅でご飯を炊くのに使ってみると、過不足ないどころか反りかえった口が持ちやすく、確かに取っ手は不要かも、と思わされる。温かい土鍋に布巾をかぶせてかかえると、ぬくぬくと気持ち良い。

こういうのでいいんだよな、という優しい肯定感。…なんか、いいですよ(笑)。

渡辺隆之さんの新着のうつわはコチラです。


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