この急須の持つ”命”の意味を伝えたくて、定番展を決めたのです。

あえて、急須の画像は載せない事にしました。実はこの『定番展』、密かに挑戦してみたことがあるのです。わたくしママろばが試してみたかったのは「言葉の力」でした。それでDMも画像は最小限におさえ、自分たちの偏愛する道具やうつわを言葉だけで伝えるような形式にしたのです。インスタやYou tubeなどビジュアルありきのこの時代に逆行するような企画であることは自覚していました。でもだからこそ、どこまで興味を持っていただけるかちょっとした懸けでもあったのです。

だから、今回の企画で重要な意味を持つ若杉集さんについての記事は、いっさい画像を入れないで行こうと決めていました。明らかにあの美しい急須の絵があった方が訴求力は高いのでしょうが、ここはぐっと我慢です(笑)。

若杉さんが益子に越してきた70年代には北郷谷(きたごや)だけでも10軒以上あったという、職人が手作業で粘土を漉す手漉し粘土屋さん。時代は高度成長期からバブル期へと上り詰める好景気のさなかで、益子焼組合でも機械生産の粘土作りが始まっていた。焼けば焼くだけ売れるような時代にあって粘土も大量生産に向いた品質のものへとシフトしていく中、どんどん手漉しの粘土屋さんが消えていく。粘土の作り方を今のうちに覚えておかなければと職人さんの元に一年かけて通い、必死で写真を撮り詳しい記録を残した若杉さん。このままでは益子にいながら益子の原土を使えなくなるという危機感から、その記録を持ってあちこち手漉し文化の重要性を説いてまわるのですが、これからはもう産地としてでなく作家として栄えていく時代なんだと退けられてしまいます。

大きな時代のうねりに職人制度や伝統までもがのみ込まれ、消えてゆくのを前にひとり必死に抗い続ける様子は、益子の土祭(ひじさい)HP中の記事を読んで知りました。若杉さんが手漉しの粘土業者さんのとんでもなくキツイ労働を目の当たりにして驚いた話。年老いた職人のお母さんがゴム手袋をはめていると勘違いしたほど真っ青な腕をしながら「やきもの屋さんにはきちんと光が当たっていいわね」と言うのを聞き辛かったこと。若杉さんが益子国際陶芸展で濱田庄司賞を受賞した際にそのそのことだけは絶対に言わなけばいけないと思ったというくだりなど、読んでいて涙がこみ上げてきました。

益子という、民芸の聖地とあがめられる窯業地にありながら、その民芸を支えてきた職人制度は崩壊している。そのジレンマを抱えたまま、最後の一人であった手漉し業者さんも廃業してしまう。二度と手に入らなくなるであろう川又さんの手漉し粘土2トンを買い取った若杉さん。その貴重な粘土をどう有効に使うか。お茶碗のようなものを量産すればすぐに底をつきてしまう。少しでも価値を持たせるために急須を選ぶに至るまでの思い、周囲からは絶対に無理だと言われた益子の原土単体での焼き締めによる急須作りを成功させるまでのいきさつから、原土それぞれの個性の違いを急須に落とし込むまでの試行錯誤まで。

今でこそ急須の神と崇められるような若杉さんですが、40年前、急須を作り始めた頃は時代に逆行するような彼の言動を周りはただ冷たく、遠巻きに見ていただけだたたそう。時にはあからさまにバカにするような言葉を浴びせられたりもしたようです。そんなに手のかかる儲からない仕事をして何になるのだと。益子の土の価値など、消費者は求めていない。原土がどこで掘られたものであるかなど、誰も興味がないのだと…。きっと若杉さんはただ黙って、みずからの技術を研ぎ澄ますことによってのみそれらの雑音に抗ってきたのではないでしょうか。

「若い奴らでね、僕がこうして細かく土を濾すのを見てね、どうやったらここまで細かくできるんですか?篩(ふるい)の一番細かい目にだってかからないでしょう、なんて聞かれることがあってね。簡単だよって見せてあげるんだよ。」と一度話してくださったことがありました。篩にかけて細かくした粘土をさらに水に溶かして沈殿させ、沈んだところを柄杓でかき混ぜる。一瞬ふわっと水に舞うところを掬い、それを乾かすんだよ。と実際にバケツに沈む泥を見せてくれながら。「教えてあげるとね、みんなびっくりするよね。でも誰もやらないよね」と笑う若杉さん。

「僕のお客さんなんてね、もうお前の急須はいくつも持ってるからいらないよ、なんて言って違うモノ作れって言うんだよ。だいたいもう若い人は急須でお茶を淹れないでしょう?ペットボトルのお茶しか飲んだことのない人もいるんだから。僕ももう歳だからね、今はもう、それほど急須を作る必要もなくなってきたしペースを落としてるんです。だからまあ、出せても2~3点と思ってください。」というのが今回の企画をお願いに上がった時にいただいたお返事でした。

70歳をむかえられ「もう、諦めてるんですよ。僕みたいなタイプの職人は煙たがられるだけです。時代遅れなんです。」と自嘲気味に笑うその眼はいまだ精悍で、ワタシたちには到底、本当に全てを諦めきった人の眼には見えません。

結局、今回届けてくださった急須は4つでした。自分たちの愛用、いや偏愛品と呼びたいほど思い入れのある道具やうつわだけを集めた展示をします。ただ毎日使っていますというものだけではなくて、その人の暮らし、時には生き方までをも変えてしまうほど力のあるものもこの世に存在するのだ、ということを知って欲しいのです。そう、若杉さんにお伝えしたのでした。

わたしたちは、彼の急須がそれほど価値のあるものだ、希少なものなのだ、ということを強調したいのではありません。もっと有難がれと言いたいのでもありません。人の手が作ったのだということが信じられないほど精密な、急須。そのただならぬ緊張感、奇跡のような造形。けれどもただ、この4つの急須を展示させていただけることだけで喜んでいてよいのか、どうしても他にもっと大切な使命があるような気がしてならないのです。どうしてこれほどまでの存在が、広く認知されていないのか。益子という土地にとって、いえ、おそらくは焼き物界すべてにとってあまりに重要な意味を持つ若杉さんの警告、メッセージ。土から生まれる焼き物が持つ意味について、こんなにも根源的で真摯な問いが投げかけられているというのに。

はじめはただ、その造形の美しさに感動してどうしても手に入れたくなってしまった若杉さんの急須。それこそ、ペットボトルのお茶を飲んでいたパパろばが、自分の手で茶葉からお茶を淹れるようになる。その美しい急須を使いたくて。その美しさにふさわしい、心から美味しいと思えるお茶を淹れたくて、丁寧に、細心の注意を払って。作品に添えたコピーの通り「急須ひとつで所作まで美しく」なってしまう。この急須を持つと自然に背筋がシャンとなります。

そしてこの急須の背景を知ってしまったパパろばが、どれほど大切にこの急須を扱ってきたことか。雑なワタクシママろばには触らせてくれないほど大事にしています。世の中を、すぐに急須でお茶を淹れるひとでいっぱいにすることなど出来ない。でも、パパろばが丁寧に淹れたお茶を飲んで、そのお茶が注がれる優雅な姿を見とめて、感動してくれる人もいるのです。今日新たにひとり、お茶に、急須に、興味を持ってくれた人がいた。とても遠い道のりですが、こんな小さな一歩からしか、ワタシたちに進める道はないのかもしれません。そしてワタクシママろばは、その一歩を、さらにこうして言葉に書き留め翻訳することで、少しでも多くの人にその道が開かれるようにと願うことしかできません。重いだろうな、暑苦しいだろうな…そう思いつつ、ほかに出来ることが思い浮かばないのです。

それにしても、若杉さんが益子のあちこちで異なる個性の原土を見つけるに至ったきっかけが、トンボの研究だったなんて。そしてそれは農薬による環境への被害を深刻に受け止め、それに意義を申し立てるためにたった一人で立ち上げた「益子の自然観察会」の、3年以上にわたる地道なフィールドワークの副産物だっただなんて。水辺を散策するかたわらに様々な原土を採掘するようになり、それが最終的に15種類以上の土を使い分けるまでに至る。若杉さんにとって異なる土を単体で使い分けることは、急須の色のバリエーションを増やすためではなかったのです。土の色が違うということは、その地層の時代が異なるということです。それはその土地の歴史であり、自然の書き残した太古の記憶そのものなのです。

若杉さんは、今も戦っている。戦い続けている。「僕はいつでも真剣勝負だから」あの日の言葉が忘れられません。

どうか、ひとりでも多くの方に若杉さんの存在を知ってもらえますように。消えゆく益子の原土を守ろうと戦い続ける若杉さんの思いが、その手が生み出す急須というカタチをした地球の記憶が、大切に受け継がれてゆきますように。

若杉さんの急須はこちらのページでご覧になれます。

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