Part.2 ハレてケ #新年のスタートはハレて新しい相棒と

1日3回毎食お米を食べるという人が少なくなってきているとはいえ、飯碗は、いろいろ種類があるうつわの中でも特に使用頻度の高いものであることには変わりありません。他にはコーヒーカップ、お湯呑、土瓶などが”相棒”と呼べる頻度で使うものの筆頭でしょうか。

年が改まる時、新学期がスタートする時、ひとはどうして目標を立てて新しい事に挑戦したり、物を新調したり、これまでの習慣を変えようと試みるのでしょう。人間は、何事にも慣れてしまうものです。はじめは全く受け入れられない、自分とは相いれない状況や物に対してでさえ、時間が経てば自然と受け入れるか、気にならないくらいには慣れてしまうのです。何かを受け入れないように抵抗し続けるということは、とてもパワーがいるものだからです。同様に、初めは新鮮に思えた目新しいものや憧れの存在、モノであっても、毎日接している内に当たり前の存在となり価値が薄れてしまう、もしくはその価値を有難がらなくなってしまうという経験は、誰でもあるはず。恋愛など、人間関係の話だけに限ったことではありません。今ここにある暮らし、自分の境遇に特に不満があるわけでなくても、何か新しいエッセンスを取り入れて刺激を感じたいと願うのは、そういった人間の”どんなことにも慣れてしまう”習性がもたらした知恵、自然と生まれてきた工夫なのではないかと思います。

でも毎年毎年、目新しいもので刺激を与え続けなければ…というのも、それはそれで疲れてしまう気がしますよね。だって、目新しいということが目的になってしまえば、当然の帰結として時間とともにそれは色褪せてしまう運命なのですから。そういうモノの選び方をしない程度には、上手に歳を取りたいものだと思います。ワタクシママろばも若いころ(当然ですが、あったんですよ~笑)は、例えばお洋服など「お、こういうのは持っていなかったな」と目新しさに釣られて選んでしまった経験も多々ありました。そして何度も失敗を繰り返すうちに「なんだか似たような服ばっかり持っている」ということをポジティブにとらえられるようになってきたのです。要するに、自分はそういうものが好きだし自分で似合うと信じている、というだけの話なんですよね。「こういうのは持っていない」という時の”こういう”ものとはすなわち異質なものということで、結局似合わなかったり、冷静に見ると好きでもなかったりしてやがて手に取らなくなるのだと、ようやくここ10年くらいでわかってきたのでした。似たようなもの結構、同じようなモノ大歓迎。あまりに気に入りすぎて本当にそっくり同じものを買い直すことだってあるくらいです。だって、それが自分の好みなんだから仕方ないじゃないですか。他人からは大差ないように見えても、自分ではちゃんとそれぞれに愛着があり、特に気に入った組み合わせもあり、何より自分自身の居心地がよいものばかりなのです。

と、新年早々またまた大きく脇道にしまいましたね~。そろそろ本筋に戻らなければ。今年のママろばの目標は「話を短く、簡潔に!寄り道はしても最小限に!」じゃなかったっけ(笑)?嘘です。絶対達成できないことくらい、自分でもわかっております、はい。新しいお相手、というのが今回のテーマなのでした。目新しいモノを求めてもやがては飽きてしまいますよ、というお話をしておいてテーマがそれ?と思わないでくださいね。本題はこれからなんですから。

『ハレもケも』の後半、Part.2ではテーマを「ハレてケ」として「年も明けて、晴れて日常に戻りましたね~」という内容に展示内容を一新しました。このタイトルからは誰もわからないですよね…。前半の「ハレなケ」といい、後半の「ハレてケ」といい、我ながら独りよがりで意味不明なテーマだなあと思ってはいました。ただねえ、前半「ハレ!」後半「ケ!」とするのは身も蓋もない感じだし、絶妙に意図と反してしまう。しかもそれだと、前半はまだしも後半など、漢字変換ひとつでかなり笑われてしまいそうだし。亜矢さんとやりとりしていた時も、「腫れも毛も」という誤変換について大炎上。大笑いしました。

そう、亜矢さんの作品も和宏さんの作品も、例えば土鍋やオーブンウエアなどの目立つ一点物を見てしまうと個性のはっきりした独創的なものばかりなので、目新しいものととらえられてしまいがちです。でも、例えば飯碗などを見てくみてださい。下の画像は全て亜矢さんの作品ですが、ひとつひとつ単体で見ていただくと、どれもとてもオーソドックスな、普遍的ともいえるシンプルなものばかりですよね。亜矢さんの作品全てに言えることですが、形やディティールには特異な要素は何もなく、ごくごく当たり前の、一見ありふれたもののような姿をしています。変な言い方ですけど、普通のカタチ、普通の色、ですよね。でも上から順に全部、通して見ていただくとわかる(と思う)のですが、そこには何か共通の空気感、佇まいとでも呼ぶべき、言葉では説明しきれない種類のものが確かに存在します。それがたとえ白磁であっても、焼き締めであっても、その”何か”は同じニュアンスで伝わってくるのです。つまりそれは、色やカタチ、土の種類や釉薬といった表層的なものによって表現される特性ではないのでしょう。




下のお湯呑みや土瓶なども同じです。中には和宏さんのものも混じっているかもしれません。ざっくり30点ほど「亜矢・和宏 ミックス」と分類されていて笑いました。この人たちは、どこまでも無欲だなあと。「まあ、気に入ってもらえたんならどちらの作でも嬉しいよねえ」ととぼける、亜矢さんの回答まで想像できてしまいます。

わたしたちが一人でも多くの方にお二人の作品を見ていただきたい、手に取っていただきたい、と願うのと同じくらい、お二人のお人柄にも触れて欲しいと願ってしまうのは、そういうことなのです。今この目の前にある形ある何か、物体そのものを単体で味わっていただくよりも、その方がてっとり早くお二人の作品の求心力を理解していただける気がするのです。だからこそ、高千穂の澄んだ空気や、夜になると鹿の眼が無数に光るという森のこと、ヤギの散歩も大事な仕事だと真顔で答える亜矢さんのユーモアや、村の消防団の仕事まで楽しんでこなしてしまう和宏さんのことなど、全部ひっくるめてお伝えできたらいいのに、と夢想してしまうのです。彼らの暮らしから感じられる豊かさがわたしたちに問いかけてきた、恐らくとても大切なことまでも…。もちろんそんなことは不可能ですし、無意味な試みなのかもしれません。でもきっと、そういう全てのことがわたしたちにとってはお二人の作品と切っても切り離せない魅力なのであり、間違いなく、作品を生きた存在たらしめている血脈のようなものなのだと確信できるのです。

恐らくそれは言葉に表して語るべきではないこと、なのかもしれません。でもきっと、亜矢さんの、和宏さんの作品をひとつでも愛用しているひとならば、意識するしないに関わらずその血脈に魅了されているに違いないのです。わたしたちが伝えようとしているお二人の生き方、「好きなことをして暮らしてゆく」ために選んだという生き方がベースになければ、今ここにある作品はひとつたりともこの世で生を得ていなかったはずだから。そして、そんなお二人の作品を毎日使っているうちに、漠然としたニュアンスであっても自分の好きな”そういう”ものとは一体どんなものなのか、次第にわかってくるのではないか、そう思えるのです。わたしたち二人もそうであったように。

一見なんでもないようなものなのに、気がつけばいつもそれを使ってしまっている。目新しさを失っても、縁がちょっと欠けてしまって古びてきても、手放せない。むしろ、より一層愛着がわいてくる。”どうして”好きなのかはわからない。でも”そういう”のが良いのだ、ということだけはわかる。居心地がよい。

長く、ずっと一緒にやってゆけるような相手とは、きっと”そういう”存在なのでしょう。それこそハレの時もケの時も、嬉しい時も悩める時も?変わらず側にいてくれるような相手、相棒。そんな居心地の良いパートナーを見つけて、晴れ晴れしく新年のスタートをきっていただけたら、これほど嬉しいことはありません。それが「ハレてケ」という言葉に込めた思いでした。この一年を「晴れてけ~!」と元気よくスキップで踏み出せるように。

…なんだか、会の締めくくりというか、結婚式のご挨拶のような内容になってしまいましたね。まだまだ続くというのに、困ったな。最後の記事にとっておけばよかったかしら…。というわけで、『ハレもケも』まだまだ続きます(笑)。



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