momento poetico #6 白石陽一さん


この、オブジェ7というタイトルの白磁の立体。実は上の画像と、続く下の2つの画像はすべて同一の個体なのです。


いずれの面を下に置くかで、こんなにも表情が変わる。そして、どちら側から光が入るのかによっても、劇的に印象が変わるのです。水を入れておくことはできるので、花やグリーンを生けることもできます。けれども、こうしてただそこに黙って置いてあるだけでも、枝に咲く一輪の花が作り出す情景以上にポエティックな空気を感じてしまうのはわたしだけでしょうか。

実は今回、白石さんは花器?とクエスチョンマークがついた立体かオブジェだけを届けてくださいました。ひとつひとつに名前はなく、便宜上ナンバーがふられているだけのモノトーンの造形物。店頭では、それらを集合で見せるシーンと、単体でグリーンをあしらって見ていただくシーンとに分けて展示していました。

群れ、になって見るとまた一段とドラマチックです。以下に続く2枚の画像は、ほんの少し見る角度を変えただけの、同じ個体群。それなのに、こんなにも受ける印象が違います。


いろいろと並び替えているうちに、真上から見てもこんなにも面白い、と楽しくなってきました。

白石さんは、鋳込みという手法で方に泥漿を流し込んで磁器の作品をつくるわけですが、あえて泥が流れたエッジのはみ出しや流れた跡をそのままに、泥の動きをストップモーションで断続的に切り取ったような作品を作ります。

泥のとある一瞬の動きを封じ込めたかのような、緊迫感。わたしが白石さんの作品を初めて見た時の驚きは、その緊迫感をともなうダイナミズムと、作品が醸し出している圧倒的な静けさ、その相反する二つの要素がせめぎ合うところをどこまでも自然に、意図的でなく見せてしまう、そこでした。白石さん特有の、作為を消しているかのような自然な泥のライン、ということについては以前「作為と無作為の境界に横たわるグレーゾーン」という記事で長々と語っています。白石さんにお会いして制作意図について聞いた時のお話をもとにママろばの主観を語っていますので、興味がある方は読んでみてくださいね。

実は、ここまで沢山の作品を一度に並べさせていただいたのは今回ははじめてです。花器、とでもオブジェ、と呼んでもどちらでもよいのですが、久しぶりにこうして見て改めて思うことは、どれもこれも、単体で手に取りつぶさに見れば見るほど面白く、そして、文句なしに美しい。それにつきます。

momento poeticoというイタリア語をそのまま直訳して詩的瞬間という言葉にするならば、この、白石さんがわたしたちに切り取ってみせてくれる泥の可能性の一端は、まさに、詩的瞬間以外の何物でもありません。

妙に用途を限ると、痛い目に合います。作品そのものがあまりに美しくて、わたしなどが花や枝を挿そうものなら、シーンを乱してしまうのです。実は”むくのつつ”という白磁の作品を見て「わあ、なんて繊細で美しい花器なんだろう」といそいそと芍薬などを生けてみたのです。ご丁寧に長さ違いで3本等並べて「咲いた~、咲いた~、シャクヤクの花があ~」という感じで。しかも、「花器の底に向かって穴が細く鋭利に削ってあって、茎が真ん中に刺さるようになってる!なんて考え尽くされた花器!」と感動しながら生けていたのでした。
そこへ白石さんから「それ、花器じゃないんですよね~」のツッコミが…。一瞬「すいません、感性が凡人で~」と消え入りそうになったのですが「もちろん花器としても使って貰えるんですが…。そこら辺に転がして在るのがオススメです。」というコメントも書かれていました。それでもまだ恥ずかしい気がしましたが、よく考えたら何も恥ずかしいことなどなかったのです。

「それこそ用途が無いので、ポエティコしてもらえればいいと思います。」と、後から付け加えられていました。詩は、それぞれの人の心の在りようと解釈しているので、わたしの中でこの”むくのつつ”の芍薬をたたえた姿が美しければ、それがわたしのポエティコなのです。正解などない世界。そこらへんに転がっていても詩的ですが、芍薬が挿された姿も、こうして3本スックと並んでいる姿もわたしにとっては詩的ですよ、白石さん(笑)。

そんな可笑しなやりとりがあった後、白石さんへのアンケートの回答を読み、自分がよく知らないアーティストの名前があれば調べ、またしてもふうむ、とうなっておりました。白石さんの切り取る一瞬の、あまりにも研ぎ澄まされた様子にとても合点がいってしまったのです。白石さんが見てきたもの、感じてきた何か、興味の対象すべてが、今こうしてわたしたちの目の前に差し出される立体の骨格をなしていることは、疑いがないからです。

たったひとつ、白石さんの作品を自分が暮らす空間に”転がしておく”だけで、きっとわたしたちは知らないうちにそのすべてを追体験できるのです。白石さんの表現をアートと呼んでしまうと、その追体験が遠い、実体のないものになってしまう。「アート作品を生活にとり入れてみましょう。心が豊かになりますよ」というセリフの白々しさ。それはきっと、ポエティックな何かを”詩”と呼んでしまった瞬間に、理解できないものとカテゴライズしてしまうようなものだと思うのです。定義する必要など、ない。ただ、理由を問うことなく「詩的だな。きれいだな。」という直観を大切に、頭でっかちにならずにモノと接したい。改めて、他人の価値観ではなく自分の価値観でものを判断することの大切さを思い知りました。

むくのつつが転がっていたらアートで、立てて芍薬を挿したらアートじゃなくなるなんて、あまりにもつまらない。でも、わたしがはじめ恥ずかしく思ってしまった理由をつきつめたら、そういう解釈になってしまう。白石さんが言いたいのはそんなことではなかったはず。その境界が詩界と俗世を隔てるガラス板なのではなく、そう単純に割り切ってしまうような画一的なとらえ方がガラスを曇らせる、生活のチリなのではないか(ガラスの板、については寺田寅彦『柿の種』の第一章でふれています)。

”むくのつつ”を花器と名うって紹介することは、見る物に対してとある可能性を狭めてしまうけれども、転がしてある立体に花を挿してみたらとても美しかった、と感じることが素敵な体験であることにかわりはないのです。

…おっと、なんだかずいぶん話がこみ入ってきてました。自分でも、うまく説明できた気がしません。そしてさらに、語れば語るほど不要に白石さんの作品を小難しいもの感じさせてしまう恐れさえある…とドキドキしてきました。ああどうか「なんか小難しいこと言ってるな」と感じた時点でさっと飛ばして作品だけを見つめてくださいね。いまさらですが(笑)。

ぜひそれぞれの作品の、異なる表情を楽しんでみてください。光に透ける、すりガラスのようにマットな質感。液体の流れをそのままフリーズさせたエッジ。色がまじりあう瞬間をとどめる、淡いマーブル模様。何もかもが詩的で美しく、じっくりと見れば見るほど新しい表情が加わり、面白みを増してきます。

その、白石陽一さんという人が生み出す立体にしかない、唯一無二の面白みを、見逃さないでいただきたいのです。

 


#6 白石陽一さんへの質問

Q : 最近読んだ中で印象に残ってるいる本や記事、文章があれば教えてください。

A : 最近読んだ本の中では
○世界は3つの石でできている。
○黄金比:自然と芸術にひそむもっとも不思議な数の話

Q : 今気になっている、読みたい本や写真集などあれば教えてください。
A : 暇なとき、ふらっと大きな本屋さんに行って、その時の気分で本を買うのが好きです。

Q : 好きな作家さんのお名前をあげてください。
A : アンゼルム キーファー
フランシス ベーコン
ゴヤ
モランディ
エゴン シーレ
クリムト
磯江毅
会田誠
浅野弥衞 などなど。

Q : 読書をする時は、どんなシチュエーションが多いですか?
A : 仕事したくなくて、しなければマズイときです!

Q : 自分の人生や生き方に影響を与えたような本、文章、言葉を教えてください。 もしくは、座右の銘としている言葉、お気に入りのフレーズをあげてください。
A :具体的な本の名前は忘れましたが
重森三玲という庭師の本と
平安東福寺 という植木鉢職人の本が
大きな意味で
作家っていいなと思ったのを覚えています。


エゴン・シーレやクリムトはわたしも絵を描いていた学生時代に随分傾倒しました。でも、これまで自分ではそう注目してこなかったキーファーやモランディ、という画家の作品を改めて見てみると、白石さんの世界にあるものと通じる何かが感じられました。機会があったらぜひ、作品展など観に出かけたいです。知らなかった作家さんの本、興味のなかった画家の作品…。こうして自分の世界を広げてくれるきっかけを与えてもらえることは、なんと刺激的で楽しいことでしょう。

白石さん、個展も入っていてとてもお忙しい中、ありがとうございました。

白石陽一さんの作品をmomento poetico Onlineページに掲載いたしました。

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