「明日死んだとしても悔いはない」毎回そう思って轆轤に向かうんだ。

「行っちゃったね。」「うん、行っちゃったね。嵐みたいだった…。」ハイエースで走り去る加地学さんをパパろばと二人で見送って、しばし呆然。4mのテーブル一面にドカドカと積み重ねてもまだ置ききれず、大きなバナナの箱5~6個にも新聞に包まれた作品が詰まったままだ。でも何もできない。手に着かないのです。あらかじめ「来るぞ来るぞ、すごいのが」と構えていたのにも関わらず、やはり相当のエネルギーが必要でした。一年ぶりの再会。またしても加地さんは、ワタシたちみんなにガッツリと喝を入れてワハハと去っていったのでした。誰もが圧倒されてしまうのです。彼のスケールに。全身全霊で生を謳歌する貪欲さと、心の底から命を讃える真摯さ。それら全てを惜しげもなくさらけ出してしまう、子どものように無防備で無垢な魂…。はじめて彼に会った人はドン引きしてしまうのではとすら思う。でも彼の作品の前に立つとすぐに納得してしまうのです。「ああ、こんな人だから…」と。前回の記事にもそれに近いことを書きましたが、正確な表現ではありません。こんな人だからこんな作品になるのではなく、こんな作品を作るために「こうあらねば」と生きているのです。意識的に。どこまでもタフに。彼と話していると、人の心を動かせるほどのものというのは、偶然や成り行きだけで簡単に生まれてくるものではないのだと実感してしまいます。加地さんの作品にはじめて出会ったときの衝撃をつづった記事もぜひお読みください。あの時とまったく同じ新鮮さで、今回の作品たちにもガツンとやられてしまいました。

生きるとか死ぬとか、大袈裟な単語ばかりで重たく感じるかもしれませんね。でもそれは実際に彼の口から聞いていないからです。お話が面白く人を飽きさせない加地さんはサービス精神旺盛。周りを笑わせてばかりです。宇宙のなりたちからサルが人へと進化することができた理由、下品にならない程度に下ネタも紛れ込ませ(笑)、次から次へと話題が切り替わります。でも抱腹絶倒の笑い話の合い間にふと「モノを作って生きていられることへの感謝の気持ち」や、時にはストレートに「もっと生きていることに感謝しなくちゃ!」というメッセージを、サブリミナルのように随所に挟みこんでくるのです。カレーが好きでインド料理屋でバイトをするうちにどうしてもインドへ行きたくなり、3ヶ月インドを放浪したこと。ヨガの聖者を訪ねて向かった山奥で盗難に遭い、無一文になったこと。バス代だけをなんとか工面してデリーに戻りさらに旅を続け…ど聞いているだけでドキドキしてしまう冒険話も飛び出します。加地さんが到着した金曜日の夜はろばの家で歓迎会を開き、笠間の船串篤司さん、Keicondoさんのほか、うつわとは全く関係ない業界の友人たちも合流して楽しいひと時を過ごしました。インドの話に差し掛かったころには加地さんに初めて会った友人たちまで、次のひと言を固唾を飲んで待っている状態に。彼が話にオチをつけるとドッと笑いが起こる。涙を流して笑い転げている人までいます。誰もが、加地さんの話に引き込まれ彼から目が離せないでいるのです。まるで魔法にかかったかのように。

実は大人たちが集まってくるまでウチのチビろばたちも一緒に食事していたのですが、加地さんはチビたちの心までわしづかみにしていました。おかしな話があって、チビろばちゃん(6歳)と一緒に遊んでいてくれた加地さんがなぜか急に「え?君バナナ好きなの?ホントに?ちょっと待って…おいでおいで」と言い出して、外に停めてあるハイエースへと彼女を招き入れました。次の瞬間、頬を紅潮させたチビろばちゃんが両手で抱えきれない程大きなバナナの房を持って現れたのです。わたしも初めて見るような巨大な房。20本ほどあったでしょう。もうチビろばちゃんは大興奮!それから5分ほど話していたと思ったらまた加地さんが「え?何?君、みたらし団子好きなの?本当?ちょっと待ってて!」とまたハイエースに消えてゆきました。わけがわからないといった風にきょとんとするチビろばちゃんと「え?まさか?まさか?」と口に手をやる兄ろばくん(11歳)。「お兄ちゃんには内緒だって!」と息をはずませ、手に大きなみたらし団子を持って現れた彼女の得意そうな顔と言ったら!兄ろばくんは妹の大好物が本当にみたらし団子であることを知っているだけに「え?え?嘘でしょ?なんで本当にお団子まで出てくるの?単なる偶然?」といぶかしそうにしています。「ママ教えたんでしょう?」とでも言いたげなので「知らないよ、何も言ってないよ」とワタシまで大慌て。もちろん単なる偶然に違いないのですがあまりにドンピシャリだったのでおかしくて…。言うまでもないことですが、それ以来ウチのチビたちの間では加地さんは「魔法使い」「四次元ポケット」…伝説のヒーローです。毎日毎日「加地さんのバナナ食べる~」と言ってはあの日の不思議な体験を繰返し話して聞かせてくれるのでした。”カッチーマジック”…ウチではすでにそう呼ばれています。

死を身近に感じてしまうようなインドという国。そこで暮らす人々の逞しさや生のリアルさに触れ、これまでの人生観を根本から見つめ直すことになった加地さん。日本に降り立った瞬間「俺はモノを作って生きてゆく」と決めたのだそう。そう決意した直後何の気なしに母親に着いて行った先がたまたま陶芸教室だった、と。「あの時変な薬飲まされてさ、身ぐるみ剥がされてインドの山奥に放り出されていなかったら、今こうして土こねたりしてなかったかもしれないよね。そう思うと感謝しなくちゃいけないくらいだよね。」とまたワハハと笑う。加地さんにかかったら、何だって感謝の対象なのだ。

「山に入って自分で木を切り倒しているとね、どうしたって胸に迫るモノを感じちゃうよね。俺なんかより長く生きてきたような樹齢の高い木がさ、ズーンと倒れてくるところを見たことあるかい?手を掌わせることしかできないよ。あんなの見ちゃうとさ、下らないもの作ってちゃ申し訳ないって本気で思うのさ。命をいただいているんだからさ。」北海道弁丸出しで話す加地さんの言葉は、そのひょうきんさとは裏腹に重く胸にのしかかってくる。同じ大きさに切りそろえられた薪を買ってきたのでは中々味わえない感覚だとも話していました。ワタシは木が倒れてくるところを間近で見たことがありません。でも加地さんのそんな話を聞いてしまったら、アタマの中にこだまするザザーッという音を忘れることができなくなってしまいました。シンとした森に響く、今まさに死に絶えようとしてゆく大木の、声にならない声。

「だからコッチもね、死ぬ気でやるしかないよね」その話の流れだったか、また違う生と死の話題だったか…。「本当に俺はね、明日死んでも悔いはないっていう気持ちで毎回轆轤に向かってるんだよ」という冒頭のセリフが吐き出されたのでした。スッと自然に、何気ないことのように話すので前後の文脈を忘れてしまったくらいです。加地さんが送ってくれたラム肉のしゃぶしゃぶが飛びきり美味しく、また合わせたパーチナのロゼも絶妙で、飲みすぎていただけかもしれませんが(笑)。確かかなり重たい話題だったと記憶しています。身近にいた幼い少女の突然の死について話していた時だったかもしれません。大切なひとの死というものは、こんなにも強く生の輝きを照らし出してしまうものかと思い知ったのだという。落ち込んでなんていられなかった。だって、こんなしょうもない俺なんかが生かしてもらってるんだぜ?「だから朝目が覚めるじゃない?毎朝。ああ、今日もまだ死んでない。ありがとうございます」って本気で感謝しちゃうんだよね。それで「よおし、作るぞ!一分も無駄になんてしてらんないさ」と工房に飛んでいくんだよ、と。

重々しい話をしながら、すぐ横で加地さんのうつわを手に取っている友人に「こんな重たいうつわさ、使いにくいだろうなって思うだろ?それがね、そうじゃないんだよ~。」どんな理由が飛び出すだろうと黙って説明を待つその友人に加地さんはただ「それが、マ~ジック!」とだけ言ってニヤリと笑ったのだとか。加地さんのそのセリフは誰も聞いていなかったのだけれど、翌日その彼はろばの家に戻ってきて「あのオジサン、変ですよね。でもなんかとりあえず買わなくちゃと思って」と赤っぽい焼締めの飯椀を選んで帰って行きました。なぜか買う気のなかった黒い徳利まで「これ、カッコイイっすね。」と一緒に握りしめて。彼は普段どちらかというと薄くて軽い作りのうつわを好んでいたのですが(笑)。彼だけではありません。その晩加地さんを囲んでいた人は皆、後からもう一度じっくり作品を見たいと言って戻って来てくれました。まるでまだ話を聞きたりないのだとでも言うみたいに。もうそこに、彼の姿はないというのに。ワタシたちはみな聴きとってしまう。その、無骨なまでに荒々しく、生の力をみなぎらせている土の塊が発する息吹を。「生きているんだ」という、歓喜の雄叫びを。






神様(そしてもちろん船串さん)、加地さんに出会わせてくれてありがとうございます。ワタシたち二人は彼と同時代に生き、直に言葉を受け取り、そして自分の手で実際にこの土の塊たちに触れることができる…その事実に心の底から感謝しています。ワタクシままろばがこんなにも、ちょっと(かなりか?)はずかしいくらい真剣に、彼の生き様を言葉でも伝えたいともがいてしまうのは、とにかくひとりでも多くのひとに彼の作品を手にして欲しいからなのです。ただこの特別な感覚を共有したいだけのです。あとはもう、言葉なんて必要ありません。

加地さんが命を絞り出すようにして生み出した迫力の作品。今回掲載したものだけでも150点以上。それでも今並んでいる半分くらいです。とても一度にご紹介できる量ではありません(笑)。まずは第一弾として比較的小ぶりなもの、碗を中心にご覧ください。加地さんはすべて碗、とひとくくりに同じ名で呼んでしまうようですが、小鉢として使えるものも飯碗も、カップも含まれます。使う人の見立て次第でどのように使ってもらってもよいのです。小ぶりなものが多いはずなのに、画面から飛び出そうなほど力が有り余っている様子、伝わるでしょうか。…それにしても、ものすごいボリュームです。ずっと見つめていたらそれこそ魔法にかかってしまうかもしれません。なんてったってほら、カッチーマジックですからね(笑)。どうかご注意を。

加地学さんのページはコチラです。

 

 

 

 

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