耳をすませて眺めてほしい、詩のようなカレンダー。

とても、とても美しい富田恵子さんの銅版画のカレンダーをご紹介させてください。

絵画のように一枚ずつ額に入れて飾っても、ピンやクリップで12枚束ねて無造作に壁にかけておいても、それぞれのやり方で、それぞれの空間に合った楽しみ方をしていただけると思います。

ろばの家では12枚全部を並べて窓に貼りました。店内からはカレンダーの文字の面が、裏に版画の作品が透けるように重なって、面白い効果を見せてくれました。外から眺めると、版画の作品面だけしか見えないのでカレンダーだとはわからず12面に分割された、大きな一枚のポスターのようにも見えます。これは、外から見た図です。

内側からは、この絵がカレンダーの数字の背景のように透けて見えています。

その月の一枚だけをキッチンなどの窓にマスキングで貼って、光に透ける感じを楽しむのもよいかもしれませんし、窓でなくても、紙の質のせいで裏の絵がうっすらと透けて見えます。文字そのものもデザインが美しいので、実用的なカレンダーとしてだけでなく、絵画としてゆったりと空間に配置してあげるだけで心が満たされます。そう、なんだか富田さんの絵は、心に働きかけてくるのです。

ワタシたちが富田さんの作品を見るようになったのは、一昨年の秋頃からでしょうか。都内であった富田さんの個展に「どうしても実物を見てみたい」と言って、パパろばが一人で出かけて行ったがキッカケでした。それまで版画や絵画、そういったものに全く興味を示したことのなかった彼が、そこまで強く魅かれる作品とは一体どんなものだろうと、わたくしママろばもにわかに興味深々…。しかもまさか、何かを購入して帰って来るとは思っていなかったのでかなりびっくりしました。

「そうか、そういうモノにも興味がある人だったんだ~」と、パパろばの知らなかった面を見せられた気がして驚きました。でも、彼が購入したその、木の欠片の4面に銅版画を貼ってある小さな作品を見せてもらった時には「ああ、わかるかも」と妙に納得したことを覚えています。なぜかと聞かれても答えるのは難しいのですが。今にして思えば、きっとこの木の作品にもタイトルがつけられていたはずなのに、それを控えていなかったのが悔やまれます。今度富田さんに聞いてみなければ。

なぜ、そんな風に「タイトル」が気になるのかというと、富田さんの作品につけられているタイトルが、とても美しい日本語だからなのです。詩のようであり、物語の書き出しのようでもあり、ただの覚書のようでもあり…。決して難解な言葉を選んでいるわけではないのに、妙に心に残る、美しい配列なのです。それが作品に添えられた瞬間に、言葉はその言葉の持つ言語上の意味から切り離されて、違う、新しい意味を与えられたように響く。時に深く、時にさりげなく。心の叫び、というような大きな音、響きではありません。あまりにも静かな響きで、耳をすましていなければ聞こえない程の、そっとささやかれたような、ただポツリとつぶやかれたような、そんな響きが似合う言葉のように感じられます。富田さんが作品に与える言葉は、そしてそのまま、作品から受ける印象とも重なります。ささやきのような、つぶやきのような、そういう静かな、穏やかな作品なのです。少なくともワタシは、そういう印象を受けました。

その、パパろばが一人で行って木の作品を持ち帰ってきた展示の後、2回ほど作品展を見に行ってきました。東京で見た展示の時に、今度はワタシの方が魅かれてしまった作品があって「今度はこっちの番」と言わんばかりにその一点だけを購入してつくばに帰りました。多分、その展示に行った時の自分の状態が、もっとも求めていた何かを作品に感じてしまったのでしょう。壺のようにも見えるその作品がまずパッと目に飛び込んできて、壁に近づいてタイトルを見た時のハッとしてしまった気持ちは、もう、その場で涙が出そうなものでした。

その作品には「注ぐたび満ちる」というタイトルがつけられていたのです。
その頃ワタシは、札幌の父の調子が悪くなってしまって心配なのと、お店でやらなければならないことが全然できていない焦りと、色々なことがごちゃまぜになって、めずらしく気持ちが沈んでいたのでした。その時の自分にとってその絵は、その言葉は、あまりにも優しく希望に満ちて、どんな励ましの言葉よりも親身で、心強く感じられたのでした。何も説明していないけれど、ワタシがそういう気持ちになっているのを悟ったのか、他に2点ほどう~んと悩んでいる作品があったのにも関わらず、「それにしなよ」とパパろばも言ってくれました。

ワタシにとってそれまでアートとは、それが抽象であろうと具象であろうと、とにかくまず自分自身の心に余裕があってこそはじめて楽しめる物、という遠い存在でした。エキシビジョンを観に行ったりするのは好きですが、何か作品を購入したいとまで思ったことはありませんでした。毎日仕事と生活するだけでいっぱいいっぱいの、余裕のない自分のような人間にはまだ贅沢品だな、くらいに思っていたのかもしれません。でも、対象がアートだろうと実用品だろうと、自分にとってそれが必要であると思えるのなら、それは必需品なんですよね。”何が自分にとって本当に必要なのか”という大切なことさえ、この歳になってもまだわかっていなかったんだと思い知りました。

それにしても、やはり何を楽しむのにもワタクシは頭でっかちなようで、決してタイトルありきで見ているつもりではないのですが、どうしても言葉への興味が大きすぎて、タイトルに魅かれた瞬間にその絵が持つ意味が変わってしまうこともあるのでした。こういうと、まるで作品そのものの価値を下げてしまう発言にとられてしまいそうですが、そういう意味ではありません。タイトルが版画作品の付加価値を上げている、と言いたいわけではないのです。なんとなく雰囲気が好きだなあと漠然と見ていたものでも、タイトルを読んで急に特定のイメージと結びついてしまい、忘れられない一点となってしまう瞬間がある、ということです。そのイメージは、見る人によって千差万別なのでしょう。決して、タイトルが答えを与えているわけではないのですから。ただ、ワタシにとっては、富田さんの作品のタイトルは作品そのものと全く同じ価値を持っていると言っても差支えないほどに、等しく魅力的なのです。作品そのものからも、タイトルからも、込められたものを感じられる、ということだと思うのですが。むしろ切り離して考えることが不自然に思えるくらい、すっと自然に結び付いているようにさえ感じます。でもそう感じるのは、ワタシが単に物事を文字に置き換えて受け止めるタイプだから、というだけなのかもしれません。

それに対してパパろばは完全に視覚から、フィーリングだけで自分に響くものを選び取るようで、はじめて購入したその木の作品のタイトルさえ覚えていないのでした。「え、全然気にしてなかった。言われてみれば良いタイトルだね」と。でもワタシがあんまりにもタイトルに感心しているものだから、今ではその部分にも目がいってしまうようになり、楽しみが増えたと喜んでいました。なんだかそういう彼が羨ましくなってきます。ほんと、受け取り方や楽しみ方って人それぞれですよね。それで、いいんだと思うんですけどね。ワタシは富田さんの作品を、文学のようにも楽しんでいる、楽しめている。そうポジティブに受け取ることにしようっと。それにしても、こんなに短くて、シンプルな言葉が、こんなにも美しく、何かを訴えてくるなんて。熱く語るとすぐに長文になってしまうワタシにとっては、羨ましすぎです(笑)!

「美しいな」と感じる気持ちにもっと素直に、自分で幅を狭めてしまわずに、楽しさや心地よさなどの自分の心の動きに対して敏感でいなければ、つまらない人間になってしまう。そんな風に感じた新鮮な出会いでした。

カレンダーも美しいですが、富田さんの独特のワールドを少しだけのぞいてみてもらえる、とてもよいものがあります。ほんの少しだけ作ってみたという、一筆箋です。
一筆箋はこんな風に何種類かありますが、作品を重ねて断裁したものを富田さん自ら和綴じにして、冊子にしてあります。表紙は違っても中身の組み合わせが全部違うわけではなく、同じ個所も出てきます。作品の一部をカットしてランダムに束ねているので、中には裏面のタイトル部分が印刷されているものも混じっているのです。これを読むだけでも楽しい。タイトルが途中で途切れている箇所もあります。それはそれで、切れた部分を想像するのもまた楽しいんですけどね。



なくした音の集まるところ  /  ふるい記憶はふりそそぐ。 /   光のような暗闇も あるかもしれない。

なにか、物語が始まりそうな気がしてきませんか?ワタシは富田さんの言葉が、言葉の配置があまりに美しく感じられて、詩集としてタイトルだけでも全部読んでみたい、そんな風にまで思ってしまいます。富田さんに、タイトルがとても素敵だと思うのですが、やはりとても考えた末に言葉を選んでいるのですか?と尋ねたら「すっと出てくるときも、ものすごく悩んでつけるときもあります。生みの苦しみというか、タイトルが決まるとやっとその瞬間、作品が自分の手を離れたという気がします。」とおっしゃっていました。

ミシン目が入っているので、メッセージを添えてカードや便箋のように使ったり、プレゼントのラッピングの一部にアクセントして挿してもキレイです。そういえば、富田さんのカレンダーは使い終わったら、文庫本のカバーにして折るととても味のあるカバーができますよ。片面が艶あり、片面が和紙のような手触りのワックスペーパーなのでそういった使い方も楽しめます。

一番最後に行った所沢Graumさんで行われた個展『朝露を聴く』では、壁に貼られているプロフィールカードにあった富田さんのあいさつ文に、いきなりノックアウトされてしまいました。

 

「 朝 露 を 聴く 」

「聴く」は「聞こえるものの内容を理解しようと思って
進んできく意」(※)とあります。
霧のただよう音、ふりそそぐ音、山の地表から生まれた瞬間の音…
聴くという意識をむければ、きっと「きこえない音」というのは
この世にないのかもしれません。
はてしなく遠くの音は、いちばん近い耳もとの音と実は同じ。

「朝露を聴く」ことはふかく自分を観て知ることなのだと思います。

(※『類語国語辞典』角川書店より)

実際に作品展に行っていただけると、もっともっと富田さんの作品の良さが伝わると思いますので、ぜひ機会があったら富田さんのHPやインスタなどをチェックしてみてください。

富田恵子さんのカレンダーと一筆箋はコチラです。

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